2009/05/31

大竹林汾陽殿パレード


 タクシーで移動した海安路と民族路の交差点。昨日に続いて行列に遭遇した。
 しかし今度は我が目を疑う光景に出くわし、二人興奮しながら撮影したわけである。
 千里眼将軍と順風耳将軍謝将軍と范将軍が歩いてるぜ!
※相方より指摘があった。確かにそうだった。


 なお、一行はここでトラックに乗ってどこかへ去って行った。大量の爆竹を鳴らしたのは言うまでもないぞ。

※一行は西羅殿で祭事を行った模様。この前なのか後なのかは不明だが、パレードの方向から考えると終了後だろうか。

開元寺(八) 開山堂

 ながらく続いてきた開元寺シリーズも最終回。トリにふさわしく開山堂である。
 ………全然ふさわしくないだろうって?
 我々の旅の目的からすれば、ここが原点なのだ。

開元寺開山堂
 外観は既に彌勒殿の記事で載せたので省略。小さなお堂の中には小さな祭壇がある。
 しかしこの祭壇がなかなかあなどれない。中央の背後に星座のように並ぶ位牌は、歴代の住持たちのものであって、特に不思議というわけではないが、中央の大きなのには、こう書いてある。 「延平郡王神位」だ。
 開元寺は鄭経の別邸であったのだから、この王は鄭経か?、とも思う。しかしこの堂の名は開山堂だ。それはいわゆる寺院の開山堂と似ているようで、実は鄭成功(開山王)の堂という意味なのではないか。
 どうですか皆さん、あなどれないでしょう? しかしもっと意外な存在に、もう気づいている人もいるだろう。

開元寺開山堂
 弘法大師だ。この寺院は基本的に禅宗だったと聞いているが、日本中に井戸を掘った聖人は宗派を超えた信仰を集めていたに違いない(思いつきで書いています)。
 なお、左の金色像は悟慈禅師、右は志中禅師である。どちらも「台南・ダイアリー」の記事に登場する住持だ。ただし志中は「開元寺」初代、悟慈はわりと最近の住持だ。なぜこの二人を選ぶのかは謎である(悟慈の代に寄贈されたのかな?)。

開元寺開山堂
 なお、悟慈和尚はこの写真の右から二人目である。なかなか怖そうな顔だ。まぁこういう所に笑顔っていうのもアレだろうけど。

開元寺開山堂
 祭壇の下にも写っている猫。背中をケガしていたらしく、動きは緩慢だった。

開元寺開山堂
 長い長い開元寺の最後は、やはりこの二人。
 日本統治時代に訪れた寺院の危機を救ったという住持、玄精と伝芳である。

 二人の足跡については「台南・ダイアリー」に譲るが、ここにも伝記が記されている。どちらも簡略なものである……が、玄精上人の説明に気になる箇所があった。
 説明文によると、事件に巻き込まれて心ならずも開元寺を去った玄精は、日本に向かう途中で遁術を使い、泉州の海印寺に飛んでいったとある。そして後に旱魃に見舞われた時に、玄精は炎の中で座禅をして雨乞いを行い、光緒辛酉年二月一一日に亡くなった。その示寂と同時に雨が降り注いだ……そうな。

 実は、光緒に辛酉年は存在しないという問題もある。辛酉は1921年で、これは中華民国10年にあたるわけである。
 1921年はまだ紫禁城に溥儀がいて、一部で清の年号が使われ続けていたという話もあるが、それなら光緒ではなく宣統となる。ただし溥儀は廃帝でしかも国民党の敵でもあるので、宣統を使わなかった可能性もある。単なるミスの可能性もあるけれど、ともかく謎は謎のまま残る。

 なんとなくすっきりしないけれど、まぁ年号なんて今回の旅では些末な問題である。憧れの開元寺に約一時間滞在した我々は、もう少しいたいのをぐっとこらえて次の目的地へ向かったわけである。
 もう少し滞在していたら、もしかしたら素食のほどこしがあったかも知れないなぁ、なんて不純な動機は……、なかったとは言い切れない我々であった。

2009/05/29

開元寺(七) 左右の護龍と大士殿


 釈迦三尊から見て左側なので、我々の進路からは右にある左護龍。1932年建築である。


 父母堂はいわゆる祖霊を祀る所らしい。


 床は禅宗の雰囲気だけど、お堂全体はどうにも違和感がある。境内でもひときわ異彩を放つ空間である。



 対して右護龍はありがちな作り。一番奥の一角は禅堂とある。ここは祖師堂であり、禅宗の祖である達磨大師を祀っているという。
 つまり、写真の中央で金色に輝く存在が達磨である。確かに左右に描かれた絵は達磨そのものなのだが……(台湾の達磨像は全般に恐ろしそうなものが多いようだ)。


 境内のもっとも奥に建つ大士殿。左に南山堂、右に功徳堂となっている。功徳堂には鄭経が掘らせた井戸があるようだが、中には入らなかった。
 この時間はどこもお祈りタイムで、あまり観光客がうろうろする雰囲気ではなかった。

2009/05/28

開元寺(六) 大雄宝殿

開元寺
 彌勒殿の奥にまた小さな庭があり、いよいよ本殿である。
 写真でも分かるように、境内には緑が多い。いかにも南国という木々が珍しい。


開元寺
 本尊は釈迦三尊。花々で荘厳されている。

開元寺
 写真撮影時、内部ではお勤めの最中だった。時々五体倒地のポーズがあった。どうやら懺悔を行っていたらしい。
 相方はしっかり参加していたが、撮影していた私がここに辿り着いた時には、既に加われそうなスペースもなかった。仕方なくしばらく眺めて、虚しいので他に移動した。

2009/05/27

開元寺(五) 浄業堂と重修海会寺図碑


 彌勒殿の左側の小さなスペースが浄業堂。浄行堂の間違いかと思ったが、どの資料にもこう書かれている。
 左側の背の低い建物は右護龍。これはそれほど古い建築物ではないらしい。
 さらに奥の屋根は禅房である。そのさらに向こうには病院がある。


 内部。お堂としてどうなのか(ダジャレ)は資料もなく判らない。ここでお参りしている人も見かけなかった。


 しかしこの堂には、必見の石碑がある。「重修海会寺図」の碑は、開元寺の前身である海会寺の伽藍配置図が彫られたもの。乾隆四二年(1777)の建立で、現在とは異なる点が多く見られるという。
 この写真(クリックすると大きくなるよ)でも辛うじて判るのは、一番下の旗竿。そして大門(現在の三川門)の内部両側に鐘鼓楼もある。
 個人的に興味深いのは、旗竿の下に菩提樹が二本描かれていることだ。樹木も立派な伽藍の一部なのだなぁ、と感心した。





 なお、三川門の右手に石碑を集めた場所(碑亭)があって、そこに同じ乾隆四二年の碑がある。そこに刻まれた「重修海会寺碑記」は、上の伽藍図と対応するそうな。
 ついでに下は「重修海靖寺碑記」である。非常に紛らわしいが、海会寺→海靖寺→開元寺という変遷を示す資料らしい。間違えて写真をUPしてしまったので、一緒に紹介しておこう。

開元寺(四) 彌勒殿

開元寺彌勒殿
 三川門を抜け、いよいよ伽藍の内部へ。別に広くはないけれど、開放感のある中埕(庭)があり、彌勒殿となる。
 この写真に見える範囲が彌勒殿。この建物は左側に浄業堂、右に開山堂を配する。

開元寺彌勒殿
 建物の右側。見えているのはほぼ開山堂の部分である。この開山堂については別に記事を書く。
 右手奥に、ちょっとログハウスっぽい建物が見える。客堂・父母堂などがある左護龍で、日本時代の建築物だ(これも別記事の予定)。

開元寺彌勒殿
 彌勒堂である。どうでもいいが、帰国後の我が家では腹が出てると「彌勒のようだ」と形容出来るようになった。日本の彌勒では通じないので、ほとんど隠語みたいなものかも知れない。

開元寺彌勒殿
開元寺彌勒殿
 彌勒殿の別称は天王殿らしい。法華寺同様に、両脇に仕える四天王は風調雨順。踏みつけられるどっかのオッサンも健在である。

2009/05/25

やっぱりガイドを買え その3

 旅行前に大量の本を買ったことは、以前の記事でまとめてある(その1その2)。普通の旅行者ならこれでも多いのだろうが、たぶん私は普通の範疇には入らないので、帰国後もまだ買い続けている。それらの中には、旅行前に買うべきだった本も少なからず含まれている。
 ここでは台北の書店で買ったり、帰国後にまた通販で取り寄せたりした本について紹介する。☆は2009年夏旅行に持参した本である。
※2010年1月にいろいろ情報追加。

 役に立った本から紹介するので、気になったら通販で買うべし(通販の方法はこちら)。
 現地で書店に行くのも悪くはないが、基本的にはホテルの近くに大型書店があって、そこが夕食後の時間でも営業している場合に限る。
 わずかな旅行期間において、ガイドを買ったり読んだりする時間は基本的に無駄だと思う。ガイドは出かける前に読むものでしょ?

 もう一つ。以下で紹介する本はすべて台湾の出版物であり、日本語では書かれていない。だから自分には無理だと思う皆さんに言っておくけれど、紹介する私自身は北京語も台湾語も全く話せない。
 話せなくとも、読むことは出来る。発音がいくら変わっても、基本的に「漢文」なのだし、ましてガイドなら言語が違っても似たような情報が載るのである。写真と地名は誰でも読めるから、あとはページをめくりながら慣れれば良い。
 台湾出版物を使いこなせれば、台南に関する情報量は無限に増やすことが出来る。旅が好きなら何も苦痛ではないはずだ。単に飯食えばいいって人種は知らないけどさ。


『台南歴史深度旅遊』(上)(遠流台湾館2003.2)
 元は『台南歴史散歩』として出版されていたものを改題。元の方は知らないのでどの程度内容が変わったのかは不明だが、データは多少新しくなっているはず。
 基本的にこれは、歴史的知識に重きをおいたガイドブックである(山川出版社の「○○県の歴史散歩」シリーズみたいなものを想像すると良いかも)。ちゃんと地図もあるし、なんと小吃店の紹介ページもあったりする。
 ただし何せ2003年刊なのでデータは古い。せめて毎年データを更新しないとガイドとは言えんなぁ、ともぞもぞと苦言を呈してみる。

 この本は上下巻なので携帯するには重い。現地で読むにはどうかなぁと思うが、事前学習には最適である。
 いや、可能ならば現地にも持っていきたい。著名な寺廟については内部配置図もあるので、見所の確認に役立つ。実際、今回の旅行ではあちこち見逃しが多かった。ごちゃごちゃした寺廟を的確に見学したいなら必携だ。
 事前・事後学習にも良い。二冊で800NT$の価値はじゅうぶんにある。

※追加
 読み始めた時から気になっていたが、どうもこのガイドは「日治時代」を悪く書く傾向がある。というか、出来事への評価云々以前に、日本統治時期の出来事をきちんと記さないのだ。
 なので前後との整合性に難のあったりする部分も見られる。大天后宮などは日本統治時期にいろいろ事件があったが、日本を悪く書けるもののみを取り上げ、台湾内での宗教対立などは端折られている。その意味では信用出来かねる面がある。
 歴史は政治の産物として作られる物語だ。なので国民党寄りの歴史が書かれること自体は、国民党が支配者である限り当然ではある。しかしそういうバイアスに気付かずに騙される不幸からは逃れたいものだ。

※追加2。八月はこれを持参した。重いがやはり便利である。

董芳苑『台湾人的神明』(前衛出版社2008.12)
 台湾の寺廟で祀られる神々を、仏教・儒教・伝説神などに区分しつつ解説する。台湾での信仰に特化しているので、非常に分かりやすい。この人(神)誰だろうって時に使える、辞書みたいな本である。
 最後の方にはキリストやムハンマドまで載っているぞ。まぁ開元寺の開山堂に延平郡王(鄭成功)と弘法大師が並んでいるぐらいだから、驚きはしないけど。

 日本語表記ではないし、ある程度そういう資料に読み慣れている必要はある。この本自体が入門書ではあるものの、さらに簡単な入門書(観光ガイドなど)で知識を得た方が良いと思われる。たとえば上で紹介したガイドなど。
 なお、著者の政治的立場はある程度窺えるが、書物の内容自体は比較的信頼出来そうだ。現在起こりつつある信仰が触れられる点も評価出来る。本ブログの記事にはかなり役だった本。

陳清香『台湾仏教美術(Ⅰ)供像篇』(藝術家出版社2008.11)
 シリーズ三冊で、それぞれ供像篇・建築篇・繪畫篇となっている。
 「仏教美術」ということで、信仰の側面にはほとんど触れられていないし、特に絵画篇は画集の域を出ない。美術品として見たい人以外には必要ないと思う。
 ただ、こういう形で見渡すと、台湾仏教の歴史の浅さだけは良く判るはず。遅れて届いた地域だから、信仰が生きているように見えるのかなぁ、そんな感想だ。


康諾錫『台湾廟宇図鑑』(猫頭鷹出版2004.2)
 例によって博客来のリンクを貼っておくが、台北市内の書店で購入した。ちなみに、買ったのは私ではなく相方である。
 内容は台湾の著名な廟宇のガイドであるが、冒頭で廟の建築についての概説されており便利。
取り上げられる寺廟は台北・鹿港。鳳山の龍山寺、鹿港・澎湖の天后宮などで、いずれもかなりのページを割いて紹介されている。今回我々が訪れた地では、台北龍山寺、台南の開元寺、祀典武廟、大天后宮、孔子廟が掲載されている。

 なお、日本の書店では3840円なんてビックリ価格が付けられているようだ。博客来なら(他にも日本発送OKの書店あり)送料込でせいぜい2300円程度じゃなかろうか。

黄柏芸『台湾的城隍廟』(遠足文化2006.2)
 作者は黄氏(最後の字は「げい」じゃなくて「うん」)だが、林茂賢(静宜大学)が監修している。文字通り城隍廟オンリーのガイドで、最初に城隍神信仰の概説、続いて官祀の廟、民間の廟の順で、台湾各地の城隍廟が紹介される。
 台南では府城隍廟、縣城隍廟、安平城隍廟(いずれも官祀)を掲載。解説もそこそこ詳しく読んで役に立つ。古地図(そのものではないが)での位置関係もきちんと載っていて良い。城隍廟は位置が重要なので。
 また、わずかではあるが城隍廟と東嶽殿の関係を説明したページがある。城隍廟を知るなら買っておきたい。これも記事を書く際に重宝している。

2009/05/24

開元寺(三) 三川門その二(門神画)

開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
 韋駄神(韋駄天)と伽藍神。どちらも日本で見る姿とは大きく隔たるが、台湾ではこういうもののようだ。

開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
 四大天王。例によって風調雨順である。
 これらは現代台湾を代表する画家、蔡草如(1919~2007)の代表作である。やがて摩滅する門扉にこれほどの絵を描かれたら、日本ならすぐに外してレプリカを飾るのではないか(それ以前に、室内の障壁画にしてもらうだろう)。
 蔡草如は若き日に日本で絵画を学び、「台湾絵画運動」を推し進めたという。台湾を象徴する古寺の門に自ら描くことの意味は、「文化財」云々以前の問題であったに違いない。

開元寺三川門門神画(蔡草如)

開元寺(二) 三川門その一

開元寺三川門
 木立に隠れるように建つ三川門。奥は彌勒殿である。
 かつての開元寺は、ここが入口であった。大門は1959年に作られた、新しいものである。

開元寺三川門
開元寺三川門


開元寺三川門
開元寺三川門
開元寺三川門
 見所の多い門である。もちろん、この門を有名にした門神は見逃せない(見逃しようもないが)。門神はその2で掲載。

開元寺三川門
開元寺三川門
 内部のいわゆる金剛力士像。阿吽ではなく、唏哈だそうだ。

2009/05/23

開元寺(一) 大門

開元寺
 「台南・ダイアリー」の記事を読んで以来、我々にとってはある種の聖地と化していた開元寺。他の行き先と離れている関係上、最終日にようやく訪問だ。ホテルからタクシーで乗りつけたぞ。
 鄭成功の息子の鄭経が母親のために建てた「北園別館」を、清の代になって寺院とした。その後の変遷については、『台湾廟宇図鑑』や『台南歴史深度旅遊(下)』にも触れられているが、いずれも「台南・ダイアリー」より簡略である。
 日本時代のことなんて、悪僧の宝山と日本人が結託して寺宝を売り払おうとしたら、(仏罰的なニュアンスで)宝山が突然に吐血して死んだので事なきを得た、という話だけ。日本統治期はある程度ネガティブに語らなければならない、という事情かも知れないが、宗派替えを含む激動の内実は、あまり書けない部分のようにも思われる。
 なお、後に取り上げる開山堂内には、歴代住職の肖像とともに顕彰文があった。玄精和尚と伝芳和尚の伝記は、ある程度それで読める。

開元寺
開元寺
 ガイドの類の写真では色が落ちているので、最近塗り直したようだ。
 塗り直す前の方がワビサビはあるだろうが、景色になじみすぎて異境の入口って感じはしない。この世ではあり得ない世界なんだから、違和感を覚えるぐらいの色彩感覚こそ妥当ではないか、と思ったりする。

開元寺
 今回のオチ。ここの境内は病院の入院患者が憩う場だし、糞尿を垂れ流すペットの散歩なぞ許されるはずもない……なんて講釈はどうでもいいのである。

 開元寺の記事は、いろいろ買った本の内容も吟味しつつ進めるので、時間がかかると思われる。三川門、弥勒殿、開山堂、大雄宝殿(本堂)……と続く予定。

首相大飯店との別離


 なんていうほど大袈裟なものではないが、四泊なんてあっという間。
 最終日の朝は、せっかくなのでバイキングの朝食。毎日朝食券をもらってるのに、一度も食べないのはさすがに申し訳ない気がした。四日連続のサバヒーも気乗りがしない……というか、さすがに疲れて出不精気味だった。
 朝食には油揚げと豆の煮付けとか、和食とおぼしきものもある。野菜と果物もあるし、追加料金なしの朝食としては上出来だ。
 ちなみに、これは相方の皿だぜ。自分の皿は意地汚さが滲み出ていたのでやめておく。山ほど食ったってわけでもないけどね。


 名残惜しいので部屋の写真なぞ。右上の突起物は貴重品入れである。金銭からPCまで、多少なりとも銭になりそうなものはここに入れていた。実は日本円の現金もそこそこあった。何せ初台湾で、いくら必要か判らなかったし。
 結論からいえば、緊急時のホテル代とか鉄道、飛行機の運賃はカードでどうにかなるわけだし、両替しなければ使えない日本円を大量に持ち歩く必然性は薄い。

 今回は4日目の朝にホテルのフロントで追加の両替を頼んだ(むろん初回の両替は桃園国際空港の銀行窓口)が、足らなくなった一番の理由は意味もなくホテル代を現金払いしたからだ。まだ台湾初日で、手にした台湾ドルを使ってみたかった。そんなアホなことしなけりゃ余裕だったはずだ。

 ついでに。
 今回、台湾入国後にカード払いだったのは、高鐵(自動券売機、カードの暗証番号が必要)、翰林茶館、空港の新東陽。使おうと思えば使えたのがホテルと新光三越。これらを除くと、まとまった出費といえるのはタクシー(長距離、貸切)、台湾茶、マッサージぐらいであった。

大観音亭

大観音亭
 興済宮の隣にある。現在の管理は興済宮と同一のようだ。
 こちらは電飾がないので夜は地味。ただ、中はけっこう見所があるようなので(ここも三級古蹟)、また昼に行ってみたいと思う。とりあえず詳細はここで確認しておくれやす(日本語が用意されているとは驚きだ)

※2009.8に内部を見学した。その時の記事を御覧あれ。
大観音亭(一) 台南最古の観音廟
大観音亭(二) 応身というか
大観音亭(三) 屋根の上

旅行費用について

 あんまりこういうのを載せる人はいないよな。ここは自分の備忘録でもあるので、興味のある人は読んでね。

 今回五日間(4/29~5/3)の交通費、宿泊費、食費、お土産代、保険、携帯レンタルなどを合わせると、約23万円ほどになった(一人115,000円だね)。現地での旅費については相方が細かく計算したのでほぼ間違いない。
 この費用は高いか安いか? 同日出発の台北ツアーと比べれば、安くはなかろう。ただし、ツアー価格も格安の日ではないし、お土産代やらは別料金だ。激安ツアーほどお土産買わされるだろうから、どこまで差が出るもんかなぁ、と思う。

 旅費の半分を占める航空運賃は、キャセイで往復する限りこれ以下にはならない(ツアーでも関空キャセイは高いよ)。そして、関空利用ならばキャセイ以外は話にならない。よって次回も変化なし。
 次回があるならば、台北に寄り道はしないので、その部分の交通費が二人で5000円ほど安くなる。お土産代は半減するはず(初台湾なので多めに買った)。サーチャージが0円なら、二人で5000円ぐらい安くなる。そう計算すると21万ぐらい。あまり変化がない。
 ホテルは首相大飯店の一部屋1800NT$より下もある。しかし現地での交渉を、いつでもフロントに日本語で頼むことが出来る、という条件で考えた場合、首相大飯店より下はまず無いのではないか。もちろん我々が言葉を勉強すれば別だが……。

 ちなみに、GWの中心となる5/3以降出発(もしくは5/4以降の帰国)だと、航空運賃が一人あたり10万円UPであった。もしも5/3~5/6で同じプランを組んだら、計33万円。さすがに出したくない額だ。

 仮定の話でしかないけれど、次回があるなら結局は今回と似たような出費になるんだろう。今回以上に使う気はないけれど、今回より積極的に下げようとも思わない。
 時間をぎりぎりまで有効に使い、観たいものを観て食べたいものを食べるのだから、ケチってはいけないでしょ(というか、これでも十分ケチっているはずだ)。

台南興済宮

台南興済宮
 夜の台南。ついに本格的な電飾を見ることが出来た。

台南興済宮
 興済宮は成功路沿いにあって、先に挙げた良皇宮に対して「頂大道公廟」という関係にあるそうな。向こうは指定なしだが、こちらは三級古蹟。
 この電飾は素晴らしい。日本の寺社でもやったらどうか。ライトアップなんてつまらないことは、二条城みたいな抜け殻でやればいいのだ。

台南興済宮
台南興済宮
 ほら、中の保生大帝も煌びやかではないか。

※興済宮については、2009.8再訪で内部を見学した。事実上同一の場所にある大観音亭も含め、以下の記事を参照あれ。
興済宮(一) 正殿と保生大帝
興済宮(二) 門神、後殿、拝拝
大観音亭(一) 台南最古の観音廟
大観音亭(二) 応身というか
大観音亭(三) 屋根の上