2010/10/31

鳳凰城の泮宮石坊

鳳凰木
 台南市の木でもある鳳凰木。実は日本統治時代の遺産で、台湾全土のなかでも台南に多く植えられたため、この街を鳳凰城と呼んだなんて話もある。
 せっかくなのでこの写真は、いつもより高解像度にした。補正も珍しく手をかけているぞ(普段は面倒なのでXnViewの自動補正のみ)。壁紙にでも使っておくれやす。

鳳凰木
 そんな鳳凰木が目立つ場所といえば、台南孔子廟。永華宮からわずかに歩くだけで、さっきまでの静寂が嘘のような繁華街に飛び出す。
 もちろんいきなりここに飛び出すのではない。その前に、下のゲートをくぐるのだ。

泮宮石坊
 府中街の向こうを塞ぐあいつはインベーダー……ではなく泮宮石坊。そのスペイスインベイダァの口の中には東大成坊。それが今となっては名前だけの「全台首学」、台南孔子廟である。

 「泮宮」とは学校を指す語。もちろん学校といっても近代の学制ではなく、孔子を顕彰する学校、つまり孔子廟そのものである。
 孔子廟とは孔子を祀る場であるが、同時に科挙制度の一部をなす教育機関だ。従ってこの石造物は、この門の先には帝国のエリート輩出機関があるぞ、えぇい頭が高い、控えおろうというモニュメントなのである。

泮宮石坊
 『台南歴史深度旅遊』によれば、この石坊はあくまで木造建築を模倣しているのだというが、こういった中国式の石坊を見ると、いつか倒れそうな危うさを感じる。
 日本の石の鳥居だって地震が起きれば倒れるけど、その鳥居と比べても上部が重そうだ。地震のない国の発想なのか、それとも倒れたらまた建てればいいということなのか。

泮宮石坊
 「泮宮」と彫られた上には、葫蘆(ひょうたん)が見える。これは辟邪・吉祥の意味があるそうな。
 今ではこの石坊と東大成坊の間に道路が出来て、せっかくの仕掛けも意味をなくしてしまった。かつてとは逆の流れで、台南の小洒落たストリートの入口を飾っている。
 しかしそれが悪いってこともないだろう。かつての孔子廟で学ぶことが出来たのは、所詮は一握りの限られた人々だけだった。そもそも我々は、ここをくぐることすら許されなかったかも知れない。

2010/10/29

永華宮(二) 永遠の少年神、廣澤尊王

永華宮
 ギラギラとした瞳のヤツは誰だ!
 数え十六歳にして旅立ったという廣澤尊王だ。

永華宮
 こちらは比較的新しい神像。
 テカった肌がなんともいえない質感だ。まぁそれ以上は言うまい。

永華宮
 永華宮は廣澤尊王を祀る宮として乾隆15年(1750)に創建された。もちろん、祭神と廟名に直接の関係はない。泉州南安人であったという廣澤尊王を、泉州同安人の陳永華が奉じて台湾に渡ったという故事に基づいている。

 陳永華といえば、金傭『鹿鼎記』では天地会の陳近南であったわけだが、ともかく鄭成功の台湾攻略に従った武将だ。ご存じの通り、鄭成功は台南奪取後すぐに亡くなったので、台湾の統治は鄭経と陳永華によって行われた。
 陳永華の施策としては、屯田や教育などが知られる。屯田は、いきなり明軍の残党が大挙渡ってきたのだから、食糧確保と治安維持のために必須であったはずだ。また教育については、現在の台南孔子廟の設置に関わっている。すぐに清軍に攻め込めない以上、大陸と同レベルの都市環境を作って長期的戦略を練るしかないのだ。
 そうした政策を遂行した陳永華は、当代の諸葛孔明と讃えられた。しかし病気のため永暦34年(1680)に48歳で永眠。その三年後に鄭氏政権は崩壊した。

 清の統治に変わっても、陳永華の人気は高かったが、反乱軍の軍師を祀ることはできなかった。そこで廣澤尊王を祀る廟を建て、そこに永華の名を冠することにした。台湾統治の実質的な指導者だった陳永華は、清朝末期になっても、鄭成功のように再評価というわけにはいかなかった。
 日本統治になって、ようやく陽の目を見るかと思いきや、また災難が降りかかる。例によって日本の植民地政府は、台湾の民間信仰の価値を認めなかった。永華宮は元々は府前路の台湾銀行支店の位置にあったのだが、その銀行支店を建てるために、廟を破壊したのだ。
 やむなく現在地に移ったのは1925年。その後に何度か改修を重ねて現在に至る。現在もあくまで廣澤尊王の廟であり、陳永華その人は祀られていない(台南市内で陳永華を祀る廟としては、陳徳聚堂がある)。

永華宮
 主祭壇には、沢山の廣澤尊王が並ぶ。懼れをなすか、目を輝かすかは人それぞれだが、いろいろな表情があって興味深いぞ。

永華宮
 この写真に主要な像がすべて写っている。
 左奥の、長門裕之が目を見開いたような顔の像が最も古い廣澤尊王といわれる。軟身(木製で、手足が動く像)で、陳永華が台湾攻略の際に伴ったという伝承のある像だ。大鎮と称されている。
 その手前の像(この記事の冒頭の写真の像だ)は二鎮で、大鎮についで古い。
 右のややうつむき加減の像が三鎮。これは日本統治時代に、新たに廣澤尊王が現れた際に造られたという。高砂町(民権路。振發茶行の辺り)の医者の家で飼われていた八哥(ハッカチョウ)に神霊が憑き、この像に遷されたそうな。

 もう一つ気になるのが、その三鎮の前にある小さな像。明らかに廣澤尊王ではないこの像は、もしかしたら妙応仙妃像ではないかと思われる。妙応仙妃とは廣澤尊王の夫人である。

※ただし妙応仙妃は蔭媽という異名があるので、このように表に鎮座しているかは微妙。若くして死んだ男の子の死後の妻という意味で、東嶽殿の打城法事を思い出させる存在だ。

永華宮
 主祭壇を左側から。大鎮と二鎮、そして位置的にはたぶん四鎮と思われる像などが見える。なお、祭神の説明は、永華宮で配られている立派なパンフを参照した。陳永華の説明もそれを利用したが、同時に『台南歴史深度旅遊』も参照している。

 孔子廟からは歩いて五分程度の距離にあるが、あまり日本人観光客は来ない永華宮。我々が訪問した時に、たまたま拝拝に来ていた中年女性(夫婦で来ていた)に、非常に熱心に説明を受けた。我々が日本人と分かると、英語を使ってまで永華宮の価値を教えてくれた。
 残念ながら我々は、英語のヒアリング能力もアテにならないので、彼女の教えてくれた詳細が理解出来たわけではない。ただ、『台南歴史深度旅遊』の陳永華の説明ページ(重いので、必要箇所だけコピーで持ち歩いていた)を見せた時に、「そうそう!」という顔で指差してくれたことが、強く印象に残っている。
 台湾の歴史を知る貴重な場所として、そして永遠の少年神を観賞しつつ平穏な日々を願う廟宇として、時間があればぜひ訪れてほしい。

永華宮:台南市府前路一段196巷20號(リンク先は地図)

2010/10/28

永華宮(一) 路地に隠れた台湾の歴史

永華宮へ向かう路地
 府中街から脇の路地に潜る。
 一つ間違えばただのコンクリートジャングルの街だが、ここも緑が途切れることがない。こういう路地を、冬瓜茶を飲みながら歩いたりするのは、本当に楽しいぞ。

永華宮
 やがて、建物の陰に廟が現れる。
 ここは今回、我々が必ず行こうと決めていた場所の一つだった。

永華宮
 ここはフルネームで言えば、六合境全台開基永華宮である。

 「六合境」という名は、清水寺や馬公廟にも冠されたもの。実は延平郡王祠も、六合境開山王廟だった。
 せっかくなので簡単に説明しておこう。「●●境」とは清代の台南における聯境組織、つまりは自警団の区域である。台湾の中心だった台南の府城は、たびたび反乱軍の襲撃を受けていた。そこで対抗する一つの手段として、住民を地域ごとに城門や港に振り分け、守らせることにした。
 で、それぞれの「境」は廟によって統括された。中心廟と付随する廟を定め、住民をそれらの廟に配属させる形をとった。ある意味、近世日本の檀家制度に似ている。
 「六合境」の中心は延平郡王祠(開山王廟)で、他に永華宮、清水寺、馬公廟と、いくつかの土地公廟によって構成され、小南門の防衛を担当していた。

 もっとも、このシステムの主眼は防衛のためではなく、住民の相互監視だったんだろうという想像が容易につく。
 日本統治時代には、いわゆる「五人組」のような制度を作って住民を抑え込んでおり、その制度は国民党も受け継いでいる。そうした制度の前身と考えた方が良いだろう。

永華宮
 台湾の歴史を物語る永華宮は、現在は小さな広場と一本の大樹を前に、静かに佇んでいる。

永華宮
 抱鼓石。大天后宮のように装飾が彫られているわけではないが、それでも立派なものだ。
 ちなみにこの写真はhashiが撮った。前日の大天后宮で、こういうものが門にあったら格が高いと教えられたので、見つけて撮影したのである。

 その格式の起源は、言うまでもなく「永華」の名にある。
 台南市の永華路をはじめ、台湾各地にその名が付けられた「永華」について、読者はもう知っているかもしれないが、ともかくその(二)にて記そう。

2010/10/27

愛の惑星の府中街

ブーゲンビリア
 タイトルに深い意味はない。たまには、読者がびっくりするようなことをやってみたいお年頃なのだ。ブーゲンビリアのネタはもう使ってしまった。
 それにしても、天に唾するように立ち上がるブーゲンビリアだ。血しぶきか、あるいは「紅い花」か。つげ義春「紅い花」は、子どもに読ませるべきだよね。

府中街
 孔子廟の門前通の府中街は、いつも花いっぱいだ。昔ながらの雑然とした空間ではなく、かといって匿名の街並みでもない。台湾のなかでも特筆すべき街路ではないかと思う。
 街路はどう掘り返しても、結局は住人次第で変わっていく。欲を言えば、もうちょっと車がなけりゃいいのだが、地方都市で車を閉めだしても成功はしないだろうから、仕方ないのかも知れない。

※歩行者専用道路によって商店街が衰退した代表例が、我が故郷の山形県S市である。そんな自戒も込めて。

ハナキリン(花麒麟)
 日本ではハナキリン(花麒麟)と呼ばれる花。いわゆるユーフォルビアに含まれる一種だ。
 有毒植物を植えるな、とつるし上げられているらしい。別のところでも書いたけど、日本の庭にアセビはある限り、心配はいらんのではないかと思うが。

サンタンカ
 サンタンカ。日本では山丹花だが、台湾では仙丹花。そこらじゅうで見かける花だ。
 台湾自生ではなく、福建や広州の花が清朝の頃に伝来したという。

ゲンペイカズラ
 アフリカ原産だが、日本ではゲンペイカズラとかゲンペイクサギとか呼ばれている。紅白だから源平という安易な発想である。
 台湾では龍吐珠だそうな。ずいぶんとありがたい植物になってしまった。

デュランタ
 園芸的にはデュランタだが、日本ではタイワンレンギョウと呼ばれた歴史がある。別に台湾原産ではないので、今さらそんな名前で呼ばれても困るだろうが。

府中街
 そんなわけで、府中街には花を愛する人たちがいるぞ、と私は言いたかったのである。「愛の惑星」といえばダ・カーポであって、決してコーネリアスの惑星ではないぞ。

2010/10/24

友誠蝦仁肉圓

友誠蝦仁肉圓
 友誠蝦仁肉圓は、馬公廟の隣にある。1950年創業の60年老店だ。
 日本語のガイドブックにも一部掲載されていたりするが、別に店内が日本の観光客でいっぱいというわけではない。というか、日本語は基本的に通じない。
 延平郡王祠の近くなので、かつて取材した人が見つけたのではなかろうか。そのガイドブックも、恐らくは十年ぐらい再取材してなさそうだったし。

※ガイドブックは通常、一から紙面を組む際には取材をするものである(まともな会社なら)。しかし一年おきといったサイクルでの「最新版」において、全ページを取材し直すことはない。なので現地の状況がどうであろうが、潰れてなければそのまま掲載され続けるものである(台南の場合、小北観光夜市がどういう扱いかで、取材時期を想像できる)。
 国内なら確認は電話一本だけど、海外はどうすんのかね? しゃべれる人をバイトで雇って電話かなぁ。

友誠蝦仁肉圓
 まぁだからといって、この店の味に難があるわけではない。
 店頭ではこのように蝦仁肉圓が手作りされている。武廟肉圓のヤツより、見た目はやわらかそうだ。
 そんなわけで店に入った我々は、貼り出されたメニューから2品を選ぶ。筆談だ。少なくとも片方は、どんな料理かすら分からないまま頼んだぜ。

友誠蝦仁肉圓
 蝦仁肉圓(3個50元)は、言うまでもなく台南風の揚げないタイプ。見た目の通りやわらかいが、これはこれでうまいぞ。
 比較するならば、武廟のヤツは皮の部分をワサビで食う印象なのに対して、これは具と渾然一体となっている。たぶんこちらのタイプの方が正統派なのではなかろうか。
 台南に数あるエビ料理の一つとして考えても、なかなかイイぞ。腹がふくれるけどね。 

友誠蝦仁肉圓
 で、こちらは香菇肉焿。いくらか忘れたが、肉圓と大差なかったはず。
 香菇はシイタケなので、シイタケと肉(豚肉)のスープということになる。焿(羮)の文字があるので、台南お得意のとろみスープである。
 見るからに具だくさんのスープで、ちょっと甘酸っぱくてこれも美味。とろみスープは腹にたまるので、一人でこの2品を食べるのは危険かも知れない。

友誠蝦仁肉圓
 店内はこんな感じで、まぁ小吃店にしては小綺麗なテーブルと椅子である。台南小吃の初心者にも安心だ。
 壁に貼られているのは、店を紹介した雑誌やホームページ。小吃店ではよくある光景だ。しかしその一枚は、英語と日本語の解説付きだった。なるほど、日本語ガイドに載るだけのことはあるな、と意味もなく感心して店を出た我々でござる。

※台湾には台湾独自の衛生観念があるので、たとえ屋台でも、不潔な印象を抱くことはほとんどなかった。
 店員がやたらマスクをしていたり(食品工場のように)、ティッシュペーパーが大活躍する(おしぼりの代役)など、日本とはちょっと違うけど、床下が生ゴミだらけなんてことはないのでご心配なく。
 ちゃんと保健所の検査も抜き打ちで入っているぞ(台北の某マンゴーかき氷の店は引っかかった)。

2010/10/23

臨水夫人媽廟 再訪

臨水夫人媽廟
 臨水夫人媽廟は、2009年5月訪問時の記事がこちらにある
 ここは台南の四大廟(宗教者が活躍する場という点で)なので、特に乩童がいた後殿を楽しみにしていた。

臨水夫人媽廟
 内部は去年の記事に書いたので、特に繰り返さない。
 決して建物は古くないものの、天井が高く立派なものだ。台湾ではマイナーな神といっていい臨水夫人だけど、何といっても子どもが欲しい人々が頼る廟だ。日本にも勝る少子化社会の台湾で、ここが流行らないわけはない。

臨水夫人媽廟
 で、入った時から気になっていたのが、向かって右手のこの景色。
 黄色の服の人は祈祷中。依頼者は写ってる範囲の右側に座っている。祭文(か何か)の声はそれほど大きくないが、時々ゲップが廟内に響き渡っている。
 かつて沖縄県の某所でユタの神がかりを見た時も、激しくゲップ(というか吐気のゲェッという音)をする人がいた。見学者が良からぬ霊を連れてきたせいだと言われた記憶がある。
 この場合がどうだったのかは分からないが、何らかの霊と交信していたのかなぁ、と想像。

臨水夫人媽廟
 そして後殿へ……と思ったら、後殿は工事中だった。上の祈祷の女性も、いつもなら後殿でやっていたのだろう。
 そんなわけでやたら狭い廟だったけれど、途切れることなく拝拝の人たちがやって来ていた。読者の皆さんも、該当者は拝拝しに行くが良いぞ。

六合境馬公廟(二) ブーゲンビリアの咲く街で

六合境馬公廟
 馬公廟についてのあらかたは(一)で述べてしまった。それでも若干は漏れがあるので、ぼつぼつと紹介してみる。
 これは(一)に載せていなかった正殿中央の様子。輔順将軍(馬仁)である。

六合境馬公廟

 ここは本廟とは離れて建っている敬心堂。中に入ることはできなかった。

六合境馬公廟
 金網越しに異国を見る……と表現すると、昔の青春ドラマの一シーンみたいだ。実際の挙動は、牢獄から「出してくれ~」とか喚いてる囚人のようだが。
 で、建物の写真でも分かるように、ここも本殿と同じく輔順将軍を祀っている。何故に分かれているのかは定かでないが、「敬心堂」という名前が付加されていることから考えれば、元は別個の廟だったということだろうか。

六合境馬公廟
 下方にはこんな神々。
 小さくなることで、神々は却っておどろおどろしい雰囲気を醸し出す。串に刺さっているその姿が、陰陽道系の人形(ひとがた、と読んでね)を思い出させるというのもある。

六合境馬公廟
 ともあれ現在の馬公廟は、ところどころに熱帯の花が咲いていたりする、のどかな空間である。
 何たって、ブーゲンビリアが路地で咲くんだぜ! ボクはあの娘を探すけど、月じゃなくて太陽に邪魔されちゃうぜ!

六合境馬公廟
 我がブログも、昨今は台湾現地の読者がぼつぼつ増えていたりする。日本の一部の世代にしか分からないネタを混ぜるのは、ほどほどにすべきかも知れない(ボクがあの娘を探すのは、言うまでもなくたま「さよなら人類」)。
 最近のこのブログには、たぶん日本語で育った人間ですら理解が難しい内容が、時々混ざっている。赤い彗星ネタを散りばめたドラゴンフルーツの記事は、台湾のガンダム好きにも分かるかな? ちょっと無理か。

2010/10/22

六合境馬公廟(一) 総趕宮とは兄弟分?

六合境馬公廟
 開山路と府前路の交差点は、城隍街と建業街を合わせた六叉路となっている。非常に複雑なその交差点の周囲に、延平郡王祠、臨水夫人媽廟、そしてこの馬公廟が建っている(2009年もここを通ったが、工事中だった)。
 府城の南部には馬兵営があったので、その関係かとも思ったが、あくまでここは馬仁(輔順将軍)を祀る宮だそうな。

六合境馬公廟
 中に入ると、目立つ扁額がある。陳水扁のものだ。
 本当は奥にある蒋元枢の「観其所感」の方が価値があったのだが……。

六合境馬公廟
 この廟の主祭神の輔順将軍とは、開漳聖王(陳元光)に従った四将軍の一人である。
 熱心なウチの読者なら、この説明を最近読んだはずだ。そう、総趕宮の総趕爺の正体として挙げられていた輔義将軍(倪聖芬)の同僚ということになる。

 廟にあったパンフレットによれば、輔順将軍は人間時代には馬仁といった勇将で、陳元光の屯田事業を支えていた。そして、陳元光が岳山の役で敵兵に囲まれた際には、斬り込んで彼を救ったが、自身は命を落としてしまう。しかし死してなお、彼は馬に乗ったまま倒れなかったという。
 その終焉はまるで日本でいうところの弁慶のようだ。まぁ『三国志演義』の典韋の方が近いか。典韋は曹操を助けたけど、弁慶は主君を助けられなかったんだよな。

六合境馬公廟
 左右におられる二人も、総趕宮と同じだ
 例によって謝将軍そっくりな廬清爺。

六合境馬公廟
 韓徳爺どえーす。二日連続で逢えてまんもすらっぴー?

 まぁ古めかしい言葉遊びに興じてしまうほど、書くこともない。といいつつなぜか続くぞ。

2010/10/21

オウコチョウとオレオレ

オウコチョウ
 2010年5月の旅は、たぶん人生で一度きりの媽祖祭礼見学を主目的としていた。そのためにderorenは初めて一眼レフに手を出した。まぁ買ったのはCanonのKissX4で、マニュアル撮影なんてしないから、感覚的にはコンデジに毛が生えた程度だ。
 一番の違いは、消音してもカシャって音が消えないことか。それはそれで問題で、賑わってる廟内では気がひけるから、結局はコンデジも共用となった。
 近距離撮影が苦手なので(何せレンズは18-135)、メシの写真もコンデジが主だった。

 そもそもカメラを買ってから、旅行までは一週間しかなかった。
 さすがにぶっつけ本番では怖いので、近所の寺まで試し撮りに出掛けてはみたが、あとはまぁ、オート専門だしどうなるだろうという感じで台湾へ向かったわけだ。
 結局、旅行中は6日間で7000枚ぐらい撮っている。RAW保存ではさすがに間に合わないので、仕方なくjpegのみで通した(それでも動画撮影と合わせて70GB以上)が、ふと思い立ってこの時だけRAWとjpegの同時保存にした。
 といいつつも、載せた写真はjpeg(さらに縮小、補正)だ。実はRAWデータを扱うソフトが、我がPCで動かないのだ(メインPCはwin2000)。

オウコチョウ
 台南の街で赤い花といえばホウオウボクだが、オウコチョウも目立つ。
 こういう花を見ると、熱帯だなぁと思う。

延平郡王祠
 で、問題はここがどこかということだ。
 以前にもここで同じ木の写真を載せているけど、それを思い出せるほどのマニアはいないだろう(全記事の把握なんて、書いてるderorenにすら不可能だ)。

鄭成功
 オレオレ、オレだよオレ!
 こことは似ても似つかないけど、オレだよ!

延平郡王祠
 一年振りの延平郡王祠は、トイレ休憩の目的で立ち寄った。見学しているのは日本の観光客ばかりで、台南での貴重な時間を消費する意義は認められない。
 去年はそこまで認識していなかったが、北京の様式に沿った建築や庭園も、やはり台南らしさとは対極にある。これは北京を首都とする国民党政権が、南部の田舎くさい様式をコケにした結果ではないか。
 バスで立ち寄るだけの観光客には、ここを台南だと認識しないよう声を大にして言いたい。

2010/10/16

六合境清水寺(二) 流れ着いた観音菩薩

清水寺
 六合境という地にある清水寺。
 今では全く目立たないが、台南市が設置した案内板によれば、台南五古刹の一つという説もあるらしい。開元寺法華寺が格上で、弥陀寺と竹渓寺は同格だそうな。
 日本統治時代には青年路を清水町(きよみずちょう)と呼んでいた歴史もある。まぁ文字はともかく、キヨミズという発音は浅はかだと思うけどさ。

清水寺
 修復中につき、仮本堂が置かれている。元々ここも清水寺の施設なのだろう。
 右上にわずかに本堂が見えている。塗り直されたばかりのようだ。余所で修復前の写真を見ると、かなり地味な印象だったけれど、ヴェールを脱いだ時にはど派手な寺に化けそうだ。

清水寺
 ここは清水祖師と観音仏祖を祀る。清の康煕年間の創建というので、台北の祖師廟(艋舺清水巖)よりも古い。ちなみに京都の清水寺は観音を祀るわけだが、別に関連はない。
 そもそも清水寺の名の由来となった清水祖師は、台北の祖師廟に祀られていた神と同じく、安渓人の祀ったものだ。
 清水祖師は雨乞いなどの霊験のあった人のようで、一応は仏教修行者である。とはいえ、台北方面の祖師廟は、あまり仏教寺院という感じではない。もちろんここもそうで、だから観音の存在が問題となる。

清水寺
 恐らくは中央の後ろの像が観音で、その前でフードを被っているのが清水祖師だろう。

 寺伝によれば乾隆35年(1770)の大雨の際、台南府城の東安坊に流れ着いた木を拾い、観音像を彫ったという。まるで日本の善光寺みたいな話である。
 流木に聖性を認めて、神仏として祀る例は多い。その場合に問題なのは、異界から流れ着いた木を「神木」として発見したのが誰なのか、という点である。善光寺の本田善光のような存在について、台南市の案内板は何も記していない(「里民」とだけある)。
 いずれにせよ「水流観音」として祀られるきっかけは、そんな18世紀の奇瑞にあったわけだ。秦河勝(大避明神)みたいに祟って現れた、なんて伝承はないものだろうか。



※秦河勝は聖徳太子を庇護し、京都の広隆寺を建てた豪族として知られるが、後には芸能の神とされた。
 世阿弥『風姿花伝』や金春禅竹『明宿集』によれば、兵庫県の坂越の浜に彼の頭蓋骨が流れ着き、人々に祟ったため、大いに避ける(裂ける)神として祀られたという。広隆寺のそばにも神社が建てられ、現在は大酒神社として残っているゾ。
 なお、大酒神社のそばにかつて池があったのだが(現在もなぜか道路が陸橋になっているのはその名残り)、池の中の島には河勝の頭蓋骨が埋まっているという伝承があったのだ。
 実際に発掘調査をしたら、経筒が見つかったそうな。

 以上は台湾とは関係ないけど、話のついでに。
 善光寺の話は有名だし、お寺のホームページにも書いてあるのでそっちを読んでおくれやす。