2011/03/30

台南の深みへ(一) 寧靖王を知ろう

 日本の観光客にとって、台南ゆかりの人物といって出てくる名前は、せいぜい鄭成功ぐらいかも知れない。しかし、台湾での事蹟が一年足らずの人物だけで、台南が分かるはずはないのである。
 当ブログで頻繁に登場する歴史上の人物としては、寧靖王、鄭経、陳永華、施琅、蒋元枢あたりが挙げられるが、いずれも日本ではなじみのない名前ばかりだ。これに加えてディープな台南に迫るには、玉皇上帝など道教系の神々、天上聖母や保生大帝などの地方神、王爺、土地公など、日本とは全く異なる信仰の知識も必須である。かくいう私自身も、まださっぱり分かっていない。

 とりあえず、有名だけどよく分からない人物の代表格として、今回は寧靖王を取り上げようと思う。当ブログで、寧靖王に関係する記事は、少なくともこれぐらいはある。

祀典大天后宮(一) 天上聖母の宮概説
祀典大天后宮(二) 寧靖王府の俤(前編)
祀典大天后宮(三) 寧靖王府の俤(後編)
大天后宮梳妝樓と寶來冬瓜茶舖
祀典大天后宮(六) 寧靖王の観音信仰
祀典武廟
台湾首廟天壇(一)(台南市中西区)
北極殿(一) 明の守護神
東嶽殿(一) 概説
五妃廟
普済殿(一) 観音寺の面影
小南天土地公廟(一) 寧靖王ゆかりの土地公廟


 上の写真は大天后宮の後殿。並ぶ位牌の中で、中央は前後に二つ重なった状態なのが分かるだろう(見辛ければ写真をクリックしてね)。重なった手前の低いものが、寧靖王の神位である。

 さて、ひとしきりブログの宣伝をした上で、本題に入ろう。
 寧靖王は台湾にとっての重要人物であるが、明や清にとってはそうでもない。日本の学校で明の滅亡を勉強する際にも、寧靖王の名前はまず出ない。その意味では、エアポケットに入ったような存在である。

 そんな人物を知るために、陳文達『臺灣縣志』を読んでみる。清代の1720年に成立した同書には「明寧靖王傳」が立てられ、かなりきちんとした伝が記されている。台湾文献叢刊本を引用しつつ、解説してみた。
 浙江、福建、広州あたりの地理が頭に入っていないと読みづらい記述であり、間違いがあるかも知れない。原文と照らし合わせて、問題があればご指摘いただければと思う。

明寧靖王傳
 寧靖王、名術桂、字天球、別號一元子。明太祖九世孫。始授輔國將軍。娶公安羅氏女、早逝。

 最初のパートは訳すまでもない。朱術桂(字は天球)という名で、朱元璋(太祖)の九世の孫。まだ明が健在だった頃に、まず輔國將軍となった。最初の妻には先立たれた。

 崇禎壬午寇亂、王避湖中。甲申京師陷、崇禎帝殉社稷。福王嗣立於建業、王入朝、晉鎮國將軍、守浙之寧海縣。乙酉、浙郡邑盡歸本朝、監國封王為長陽王。鄭芝龍據閩、尊唐王為帝、建號隆武。王奉表稱賀、改封寧靖。

 崇禎壬午寇亂とは、1642年に後金(後の清)や李自成らによって起こされた兵乱である。1644年に京師(ここでは北京のこと)が陥落して崇禎帝が殺され、明帝国は滅亡する。その時、寧靖王は湖中(浙江省湖州?)にいたため難を逃れた。
 その後、福王(朱常洵)の子が建業(南京)において皇帝に擁立され(弘光帝)、一般には「南明」と呼ばれる政権が誕生する。朱術桂は南明の晉鎮國將軍に任じられ寧波(ニンポー)の辺りの守護を担当した。
 ただし弘光帝はたった一年で清軍に捕えられて殺されている。敗北や皇帝の死は文面に書かれないので、補足しながら読む必要がある。

 ついで、浙江州を平定した功により、監國の朱以海(魯王)は彼を長陽王に任じた。なお、監國はほぼ皇帝と等しい存在。ただしこの監國も、すぐに浙江を追われる。
 続いて、閩南(福建)を本拠地とする鄭芝龍(鄭成功の父)が、唐王(朱聿鍵)を隆武帝として即位させる。この皇帝が、朱術桂に寧靖王という名を与えた。ついでに言えば、鄭成功に「國姓」を与えたのもこの皇帝である。

 南明は名目上は明の後継だが、実際には何の力もない地方勢力に過ぎない。寧靖王は、一族の中で遠縁だったおかげで、神輿を担がれずに済んだわけだ。
 まぁこの期に及んでも監國と隆武帝が争ったりして、明の皇帝という地位に魅力を感じる王族は少なくなかったようだが、即位すれば清軍の攻撃対象になって殺されてしまうという、負のスパイラルにはまっている。
 そして重要なのは、鄭芝龍が登場すること。後に息子とは袂を分かつ父だが、ともかく福建の地方勢力(というか海賊の頭)の鄭氏と寧靖王が出会ったわけである。

 丙戌五月、大師渡錢塘、王奔避寧海、乘舟南下。歲杪、抵廈門。值粵東故將李承棟奉桂王之子稱帝肇慶、改元永曆、王因入揭陽。庚寅冬、粵事又潰。辛卯春、王旋閩、處金門。及鄭成功取臺灣、王遂東渡。成功事王、禮意有加。成功死、授餐之典廢、乃就竹滬墾田數十甲以資身。

 1646年5月に大軍が銭塘江を渡り、寧靖王は寧波付近から船で南へ逃げる。そして年末には廈門(アモイ)に至った。なおこの間に監國朱以海は鄭成功とともに逃亡、隆武帝は清軍に捕えられて自害している。鄭芝龍が清に寝返ったのもこの年である。
 そこで粵東(広東)で桂王の子(朱由榔)を帝肇慶と称して即位させる。これが永暦帝である。寧靖王は広東の揭陽に拠った。永暦帝は鄭成功を延平(郡)王に任じている。なお、この頃まで鄭成功の配下だったのが、後に鄭氏政権を滅ぼす施琅である。

 しかし1650年に広東も清に奪われ、1651年に寧靖王は閩南の金門島に渡った(永暦帝は雲南からビルマまで逃げたが、1661年に捕えられて殺害)。ここから十年間、鄭成功らの抵抗が続いたわけだが、その辺は割愛されており、やがて台湾攻略に伴って1662年に台南へ遷った。
 鄭成功は寧靖王に仕えたが、彼が亡くなって鄭経が後を継ぐと、王に対して食事を奉ることをやめた。その代わりに竹滬(現在の高雄市路竹区)の田をもらうことになる。これは鄭経が崇敬の念を捨てたのではなく、王が自立を志向したという記述だろう。

 清に攻め込まれて絶対的劣勢にありながら、まとまることもなく身内で争い続けた南明は、結局は1661年に永暦帝が死んで滅亡する。その中で、争いに巻き込まれずに生き延びた寧靖王をどう評価すべきなのかは、私には分からない。
 ただし同じく鄭成功を頼っていた監國朱以海は、1662年に亡くなったが、これは病死である。寧靖王の幸運も、清軍の弱みである水軍を握っていた鄭成功とうまく関係を保てたからなのだろう。

 そうして寧靖王の王宮が、現在の台南中心部に造られた。
 王宮の中心は大天后宮であり、祀典武廟もその一部にあたる。

 戊午、聞靖海將軍侯施琅調集水軍進討、王獨憂之。癸亥六月、克澎湖。王乃大書曰「自壬午流賊陷荊州、攜家南下。甲申、避亂閩海。總為幾莖頭髮、保全遺體、遠潛外國。今四十餘年、六十有六歲、時逢大難、全髮冠裳而死、不負高皇、不負父母。生事畢矣、無愧無怍。」

 伝記は台南在住時のことを何も語らず、いきなり最期の時の物語となる。
 1678年に、施琅が水軍を組織していることを知り、寧靖王は憂えた。そして1683年6月、澎湖諸島が施琅に攻め落とされる。王はこのように記す。
「1642年以降、賊軍は荊州を陥落させたので、家族を連れて南下した。1644年には閩南に向かい、乱を避けた。いつの間にか頭髪も少なくなり、遺された身体を全うして、遠く外国に潜んでいる。今、乱が始まって四十数年、六十六歳になって大難に遭うが、きちんとした身なりで死に、天の神に背かず、父母に背くこともない。私の生涯はこれで終わるが、恥じるところは何もない。」

 次日、校役昇主人柩、王視之、無他言。但曰「未時」。即加翼善冠、服四團龍袍、束玉帶、佩印綬、將寧靖王麟鈕印送歸鄭克塽、拜辭天地祖宗。又書絕命詞曰「艱辛避海外、總為幾根髮。而今事畢矣、祖宗應容納。」 書罷、結帛於樑自經。且曰「我去」、逐絕。眾扶之下、顏色如生。藁葬於鳳山縣長治里竹滬、與元妃羅氏合焉。

 翌日、王宮の者が寧靖王を納める棺を造ってくると、王はそれを見て「未の時だ」とだけ告げた。それから王は正装に着替え、寧靖王の印を鄭克塽(鄭経の子。この当時の鄭氏政権の主)の元へ送り返し、神々を拝んだ。そして死に臨んで詩を詠み、絹を結んで梁で首を吊った。「私は行くぞ」と言って息絶えた。

 王無嗣,以益王裔宗位之子儼鉁為後。時年七歲、安置河南開封府杞縣。

 寧靖王には子どもがいなかったので、儼鉁という一族の者に杞県(河南省)の廟墓を祀らせた。以上で伝記は終わりである。

 澎湖諸島の陥落が死の契機になったというのは、だいたいどの書物も一致するようだ。寧靖王は施琅がどんな武将かを知っている。鄭克塽が台湾を守れるとは思わなかっただろう。そこで、屈辱を受ける前に立派な死を選んだわけである。
 この際に五妃が王とともに死ぬことを選び、五妃廟に祀られた。寧靖王自身は、自分の王宮(後の大天后宮)で辞世の句を遺し、首を吊って果てた。

 ちなみに鄭克塽は降服して許され、天寿を全うしている。ならば寧靖王も……とはいかないだろう。鄭克塽は責任を親や祖父に押しつければ生きる道もあるが、寧靖王は、たとえ当人にその気がなくとも復明の象徴として利用されるのだ(現に三藩の乱に鄭経が加わった際には、寧靖王の存在を誇示していた)。

 いずれにせよ、寧靖王は66年とされる生涯のうち20年以上を台南で過ごした。皇帝を自称しては殺される同族のなかで、平穏な時をおくることもできたのだから、それなりに幸せだったという感懐になるのだろう。

北極殿
 寧靖王の遺蹟は、基本的にはすべて排除されている。五妃廟の他には、この北極殿の扁額(見辛くてすまん)が唯一である。
 それでも台南には、寧靖王の伝承に彩られた廟や史蹟があちこちにある。上の伝記に抜けている台南時代を、いろいろ想像しながら街歩きすれば、台南観光はぐっと深みを増すはずだ。


 なお(一)と題してみたが、(二)があるかは未定。
 しんどい企画なので、そうそう続編を、というわけにはいかないので御座候。

2011/03/25

最近の更新内容

 例によって、昔の記事を修正中。写真も増やしているので、お暇なら見てね。

東嶽殿(一) 概説
 東嶽殿については、2010.5訪問分を今後掲載する。そのために過去の記事のダメな部分を増補しているところだ。(一)はだいぶ書き替えた。(二)以降も徐々に増補予定。

土城正統鹿耳門聖母廟
鹿耳門天后宮
 この二つの廟の記事は、初期のものだけに間違いが多く、いつかは書き替えなくてはと思いつつ先延ばしになっていた。今回、とりあえず明らかな間違いは修正。
 東嶽殿も鹿耳門関係も、記事の修正が、旅名人ブックス『台南』の影響から脱することにつながっている。台南に行くきっかけの一つがあのガイドブックだったことは間違いないのだが、今となっては薦めづらい本になってしまった。

開基玉皇宮(一)
 その(六)を書くに当たって加筆修正。かなりマニアックになった。

法華寺(台北市)
 台湾初日の記事内容は、読み返すのも嫌になるほど「分かってない」ものだ。順次修正していく。

 この他にも、細かい修正を加えた記事は幾つかある。台南の寺廟に関しては、ピンポイントで検索すればたいていウチに辿り着くわけで、出鱈目な内容を残しておくのはまずい。修正だけなら気分転換程度の手間でできるし、今後も進めていくづら。

台南の猫
 脈絡はないけど、台南猫でござるよ。

2011/03/18

旅行できる人は台湾へ行こうぜ

啓天宮
 災害は現在進行中。しかし全国一律にしぼんでいても、誰のためにもならない。
 かくいうderorenとhashiは、二世誕生直後という理由で旅行はできない。しかし特に西日本の人で、旅行が可能なのにためらってる人がいたら、こう言いたい。今こそ台湾旅行しなさい、と。

 まぁしかし、ちょうど去年の旅行記の更新が終わりかかった時期なので、気分転換しようにも書ける記事が見つからぬ(台湾と無関係の記事は書かないづら)。
 なので、見ると楽しくなれるような写真を載せてみよう。ポポポポ~ンとともだちがふえるかも知れないぞ(艋舺・啓天宮)。

小南天
 たのしいなかまに陰影を付けてみたぜ(小南天)。


 なお、こんなしょうもない写真加工とは別に、古い記事の増補は随時進めている。お客の多い記事を中心に、今後も続けていく予定。
 いずれは地域別の目次とは別に、たとえば鄭氏政権関係の目次とか、そういうのを作りたい。まほうのことばでポポポポ~ンとできたらいいねぇ(ああしつこい)。

2011/03/13

平安祈願

開基玉皇宮
 当ブログとしては、情報の確実性を保証できないため、震災関連の情報は掲載しない。
 テレビ・ラジオで情報を得るならNHKに固定しよう(現地以外の民放は見る価値なし)。ネット情報は、どこが本当に機能しているのか分からないが、とりあえずここを見るよう薦めておく。

 義援金は日本赤十字社が受付を始めたこちらから

 bloggerは携帯に対応しないブログなので、本当に困っている人の役には立たない。なので、デマを飛ばさないことが一番意味のあることと考える。


 そして、台南旅行ブログとしてできるのは、人々の平安を祈ることぐらいだ。
 御利益のありそうな神さまを、とりあえず載せておく。上は玉皇上帝(開基玉皇宮)。

慈蔭亭
 観音は台湾的には海の神なので、海辺の皆さんの平安を願っておく(台南の慈蔭亭)。

興済宮
 負傷された方々のために、保生大帝にもお祈りしておく(台南の興済宮)。

2011/03/11

大地震について

 震災で亡くなられた皆様に謹んで哀悼の意を表します。

 derorenの家族はどうにか無事で、停電も昨夜のうちに解消された。
 実家の携帯はつながりにくいだけではなく、充電されていなかったためにバッテリー切れを起こしていた。さらに固定電話は、最新型の立派なFAX付き電話機が停電で使い物にならず、おかげで安否確認が著しく遅れた。個人的な反省材料である。乾電池式の充電器ぐらいは備えておくべきだろう。

 各地の被害については、報道された以上の何かを知る立場にないのでコメントしない。
 パニック映画を演出するような報道は、以前の災害に比べれば減ったようだ。それでも民放各社の姿勢には、疑問を持たざるを得ない時がある。被災者は、視聴者に娯楽を与えるために戦っているのではない。
 日本より数段劣る(これは断言しておく)台湾メディアにも、報道とは何を伝えるものなのかを反省してほしい。八八水災の報道はまさにパニック映画で、全く役に立たないものだった。


台灣的各位。

那邊的電視,日本全境是不是象毀滅一樣的報道會被反復。
那個絕對不正確。關東地區(東京·橫濱市等)趨向著復甦。
仙台市,會也不久恢復。
但,全部要復興,花費長的時間。

受災地區,是美麗的海和好吃的魚類菜能享樂的旅遊地。
請到復興的時,訪問旅遊。


※以上は3/12 13:30時点で書いたもの。

※以下は3/11 19:25時点の内容(deroren is alive)

 京都でも5分以上も揺れ続けたので、ただ事でないことはすぐに分かった。
 山形の実家に連絡つくまでに一時間半もかかった。現在停電中らしい。

 ここは台湾の人も読んでいるので、簡単に。
 まず、台湾にも津波が来てます。ご注意!

 京都・大阪・神戸など関西圏については、長く揺れたものの、地震そのものの被害はほとんどないようだ。関西国際空港も生きている。
 ただし太平洋岸には1m近い津波が到達している。関空自体は生きているが、東京便が軒並み関空に避難しているので大混雑が起きている。

 災害だからということで闇雲に旅行を自粛すれば、経済的ダメージが拡大するだけだ。とはいえ空港や一部交通機関は混乱するし、イベントは次々と中止になっている。
 大丈夫だから日本に来てね、とは言えない状況である。

2011/03/07

註生娘娘様の御利益

台北保安宮の註生娘娘
 去年の台湾旅行では、註生娘娘と臨水夫人を熱心に拝拝したderorenとhashiである。
 しかしそれぞれの寺廟の記事においては、あえてその辺の紹介をぼかしていた。それはなぜか? 拝拝する理由があまりにあからさまだからだ。

 そんなわけで昨日、神々の御利益を授かったわけでござる。予定日より二十日近く早かったけど、ともかく当ブログに三人目が登場のはこびとなった。三人で台湾旅行ができる日が、一日も早くやってくることを願うばかりだ。
 お礼参りは…、数が多すぎてどうしかものか困るな。代表していくつか選んだら、漏れた神様に叱られそうだ。

 写真は台北の保安宮。手元に台南の写真がないので、また改めて台南の御利益特集といきたい。

2011/03/05

開基玉皇宮(六) 王者の扁額

開基玉皇宮
 三度目の訪問となった開基玉皇宮。初回訪問時は、存在すら知らないまま案内板に導かれて訪れ、あまりにディープな空間にびびった。二度目はくまなく見学し、帰国後に某大の人と話したら、二十年ほど前に見学したと聞かされ「やはりなぁ」と納得した。
 なので今回は大いに期待して訪ねたが、拍子抜けするほど静かだった。どうも時間帯も悪かったらしい。こういう宮の見学は、遅くとも朝九時ぐらいにしておきたい。

 まぁディープな話題は(七)に譲ることとして、ここでは扁額特集。
 まず正面を飾るのは陳水扁。台南県(現在は台南市の一部となった)出身の総統だ。現在は刑務所にいるようだが、当ブログは現代政治を安っぽく語りたくないので評価は割愛する。

開基玉皇宮
 中央に玉皇が祀られている。その上には三つの扁額。中央は李登輝、右は連戦。左は確認しなかった。
 代々の民国総統、もしくはそれに準ずる大物ばかりである。まるで孔子廟だねっ。

開基玉皇宮
 歴代の台南市長による扁額もある。
 ただしその位置は中央ではなく、隅においやられた格好だ。これは行政組織の上下関係があらわれているのだろう。

開基玉皇宮
 こちらも市長。二階だ。

開基玉皇宮
 最後は北区区長。総統を頂点とする国家組織のそれぞれが、それぞれの格に従って扁額を奉納している。

 玉皇上帝は(いわゆる)道教世界の王である。そして道教的世界は、少なくとも台南でのそれを見る限り、明らかな官僚組織だ。廟の神々は、より上位の神によって任命され、それぞれの職掌を司るのだから。
 一方で皇帝の世界、つまり神ではなく人間の側も、天命を受けた王を頂点とする官僚組織だった。ただし現在の首長は民選なので、一応そのような超越性は持ち合わせていないはずだ。

 もっとも、台湾でまともな選挙が行われたのはつい最近に過ぎない。世襲総統を輩出した民国を、帝国と区別する必要はなかったのだろう(皇帝の位置におさまることで体制を安定させた、とも言える)。
 民主化と独裁打倒は密接な関連がある。けれど両者はイコールではない。世界のあちこちがあんな状況の今だから、そんな当たり前のことを再確認したくなる。ああ嫌だな、結局は政治を語ってるじゃないか。