2015/09/08

台南歴史年表(その4)

 その3を書いた時点で、その4もほぼ現状まで書き終えていた。が、どこで区切るべきか考えているうちに多忙となり中断。その後、多忙じゃなくなっても、一度中断した作業を再開できずに現在に至る。
 とりあえず、書いたものは公開しようと思う。たった4年分だけど。


1871年(清・同治10年 日本・明治4年)
 牡丹社事件が起きる。

 この年、琉球国の船が台風に遭い、台湾の屏東付近に漂着した。総勢60名ほどいた彼らは、当地の集落「牡丹社」に向かい、54名が殺害されてしまう。
 殺害に至った経緯は、日本側と台湾側の主張が異なるので、はっきりしないと記しておく。明確なのは、日本政府が事件の責任を原住民のみに被せた点である。
 生き残った琉球人は、福建省に送られた上で琉球国へと還された。

 ここまでの表現でも分かるように、清側はこの件を、あくまで清と琉球国の問題として処理した。
 当時の琉球国は、清と日本の双方に従属する王国であり、日本領土ではない。ただし、生存者が帰還した1872年には「琉球藩」が布告され、日本の領土化がすすめられていた。
 日本政府は、この事件を「日本と台湾の事件」と主張することで、琉球国の併合を認めさせようとしたわけだ。もちろん、政府の思惑は他にもあったわけだが。


1873年(清・同治12年 日本・明治6年)
 日本軍、台湾の侵略を図る。
 先の牡丹社事件に対する報復として、日本軍が台湾を襲撃、原住民を殺害した。

 既に述べたように、この出兵の第一の意図は、琉球国の日本領有を清に認めさせることである。
 ただし実際には、兵士の中には開拓民とおぼしき層が混じっていた。つまり、そのまま台湾を日本領土にする意図も有していたのだ。

 そもそもこの出兵には、明治政府下の政情不安が絡んでいた。幕府の廃止に伴い、失業した武士たちが不満をつのらせ、やがて佐賀の乱西南戦争などを引き起こしたことはご存じだろうが、そうした層に職を与えるための手段の一つが海外出兵なのである。
 侵略先の第一候補は朝鮮。しかし征韓論はそう簡単には通らない。そんな時に牡丹社事件が起きたので、これを好機と戦争に乗りだした。というか、台湾襲撃もやめるよう押し留められたのだが、強引に攻め込んだのである。

 そうして行われた台湾襲撃は、植民地化という意味では失敗する。日本軍にとっての最大の敵は、短期的にいえば台湾原住民ではなく病気だった。マラリアやデング熱など、熱帯特有の病気に対して、日本軍の軍医は適切な処置ができず、多くの死者を出した。
 そこで清政府との交渉が行われ、原住民の行為に非を認めた清が、日本に賠償金を払うことで決着。日本軍は半年ほどで撤退した。
 この賠償金は、派兵費用には全く見合わない額だったが、琉球が日本、台湾が清にそれぞれ属することの証明となった。少なくとも、琉球国の位置づけに関しては、日本側の意図が実現したことになる。

 また、日本軍はこの派兵の際に、気象観測を行うなど、台湾の把握につとめた。後の台湾併合に、多少なりとも役には立ったものと思われる。


1875年(清・光緒元年)
 台南の開山王廟延平郡王祠に改められる。当時は閩南式の廟宇であった。

 鄭成功を祀り、日本の観光ツアー客にはおなじみの延平郡王祠。しかし、鄭成功は清政府の大敵であり、表立って祀ることなど許されるはずもなかった。そこで「開山王」としてひっそりと祀られていたという。
 ところが1875年、台湾統治を委ねられた沈葆は、「鄭成功は反逆者ではなく忠義の臣である」と清政府に訴えた。
 これまでの主張をひっくり返した上で、大々的な廟の整備を行ったのである。

 ちなみに、 台湾の「開山」がすべて鄭成功というわけではない。台南市の開基開山宮は保生大帝を祀る。開元寺の開山堂には、鄭成功も祀られている(開元寺は鄭成功の子、鄭経の別邸址)。また、同じく台南市にある大人廟の「大人」を鄭成功とする説も。
 これらは、秘密結社「天地会」との絡みで、さまざまに物語られる鄭成功である。


 沈葆は、牡丹社事件と日本軍の台湾侵略という事態の中で、台湾を護るために送られた人物である。
 具体的には、日本の軍に備えて西洋式の億載金城を造り(1876)、移民の禁令を完全に撤廃して、中国人による植民をすすめた。また、台南中心であった行政を、より日本に近い台北に移す方向性も定めた。
 鄭成功の再評価も、もちろん対日本という目的である。つまり、台湾で人気のあった鄭成功を政府公認とすることで、住民の反清感情を抑えようとしたのだ。


 なお、台湾初心者向けにその後について簡単に記しておこう。
 1895年に台湾の日本領有が確定すると、鄭成功は日本の血を引く者であり、日本軍の先駆者とされた。そこで閩南式の廟は日本神社建築に改められ、開山神社となった。
 台湾の神社は、基本的に日本の神を持ち込んだものだが、ほぼ唯一の在地神が鄭成功だった。

 ただし『台湾事情』などによれば、現地の子どもを台南神社(北白川宮を祀る)に連れて行く一方で、開山神社が重んじられていた様子はあまり読み取れない。公学校向けの教科書でも、台南で触れられるのは台南神社のみ。
 所詮は余所者という意識があったのではないか、とも思う。

 国民党政権下では、再び延平郡王祠となる。ただし建物は北京風。
 台湾に脱出した国民党にとって、大陸反攻を夢見た鄭成功は、党の先駆者という扱いになった。そこで現在のような社殿が建てられた。
 北京風なのは、中国の正統王朝の様式にならったもの。台北の旧城門のいくつかも、閩南風から北京風に改築された。故宮博物院など新規の建物も同様である。

 まぁ要するに鄭成功という人物は、時々の為政者に都合よく利用されて、現在に至っている。
 ポジティブに捉えれば、いろんな意味で境界線上の存在なのである。


延平郡王祠
開基開山宮
開元寺開山堂
大人廟と鄭成功伝承


 鄭成功を書くと長くなったので、ここで一区切り。
 初心者向けを意図しているので、当ブログの読者には分かりきったことも書いた。